間人皇女は舒明天皇とその皇后の宝皇女(後に即位して皇極・斉明天皇)の間に生まれた三人の子の内の一人で、兄の葛城皇子(後に即位して天智天皇)と弟の大海人皇子(後の天武天皇)の間、真ん中の子として生まれました。
彼女の名が歴史に登場するのは兄の葛城皇子が起こした乙巳の変の直後(645年)、そのときの天皇だった母の皇極天皇の退位によって新たに即位する事になった叔父の孝徳天皇の皇后として立后しました。
このとき間人皇女はまだ10代後半、夫の孝徳天皇は50歳、明らかに政略結婚でした。この立后によって彼女は数奇な運命をたどる事になります。
即位後、孝徳天皇は宮を難波に移しました。理由は飛鳥の都は旧豪族勢力の力が強くそれが改革に異を唱えていたから、それらを避けるための遷都だと言われています。
当然、皇后である間人皇女も難波に移りました。さらに、前天皇の皇極上皇や葛城皇子も難波について行きました。
しかしこの難波遷都の後、孝徳天皇と皇太子になった葛城皇子の間に徐々に亀裂が生じます。
そしてその亀裂はだんだん深まっていき、ついには葛城皇子が皇極上皇や皇后の間人皇女を連れて飛鳥に帰ってしまいます。
母の皇極上皇はともかくとして、皇后の間人皇女を連れて帰るというのは奇妙な話ですが、ひょっとしたら孝徳天皇を廃帝して間人皇女を皇位につけようとでも考えたのかもしれません。
その後、孝徳天皇は病に倒れます。その報を知った葛城皇子は皇極上皇、間人皇女、大海人皇子、公卿らを率いて難波宮に赴いたと日本書紀には書かれています。
その後すぐに孝徳天皇は崩御し、二ヶ月後に陵に葬られました。
天皇を葬った後、葛城皇子は皇極上皇を連れて飛鳥に戻っています。そう、連れて帰ったと書かれているのは皇極上皇だけなんです。
八木充氏はこの事を指摘した上で間人皇女は飛鳥には戻らず、難波宮に留まって政権再考を目論む旧蘇我派の中心的存在となったのではないかと仰ってます。
さらに万葉集などに見える仲皇命や各地の寺に残る仲天皇、中宮天皇等の記載は間人皇女の事だろうとした上で、これは従来言われているように斉明天皇(皇極天皇が再即位)の後に間人皇女が即位したのではなく難波朝で天皇のような位置にいたという事だろと説明されています。
ただし、天皇として即位したのではなく「中(仲)」は第二のという意味で葛城皇子に次ぐという意味で使われたのだろうと言われています。
しかしこの説はいかがなもんでしょう。
まず、葛城皇子が連れ帰ったのが皇極上皇のみしか書かれてないからといって間人皇女が難波に残ったとは言い難いと思います。
難波宮に向かうときに同行した人物として大海人皇子の名も上がっています、その後の記述から考えて彼は一緒に帰っています。
さらに、書紀には孝徳天皇の息子の有馬皇子が斉明天皇に紀の湯に行って来た時の様子を話しています。難波朝にとっては有馬皇子はたった一人の後継者です。その有馬皇子が飛鳥にいる事の説明が付きません。
(作者注)
有馬皇子を人質として連れて行った。とも考えられなくはないんですが、その後に謀叛の疑いで誅してますからこれも可能性が低いのではないかと思います。
ですから、難波朝で間人皇女がその中心的人物として存在したというのは考えにくいでしょう。しかし、その後の記述に間人皇女が登場するのは、葛城皇子の治世四年に亡くなったという記述のみですから、間人皇女が飛鳥に帰らなかった可能性はあるかもしれません。
没後、間人皇女は母の斉明天皇と共に合葬されています。その母もまた時代によって数奇な運命を背負わされました。陵の中で二人は何を語り合っているのでしょうか。